清水の街を歩いていると、あちこちで同じ名前に出会います。

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次郎長通り、次郎長生家、次郎長ゆかりの寺。

清水でいちばん有名な人物は、サッカー選手でもアニメのキャラクターでもなく、江戸末期の親分・清水次郎長です。

ただ、この人の本当に面白いところは、「強かった」ことではありません。

人生の前半でケンカに明け暮れた男が、後半では港を育て、荒れ地を拓き、英語塾まで開いています。

この振れ幅の大きさが、清水の人がいまも次郎長を語り続けている理由なのだと思います。

読んでから歩くと、港町の歴史散歩がもっと楽しくなるはずです。

そんな次郎長の物語を紹介します。


米屋の息子、長五郎

次郎長は1820年(文政3年)、清水湊の船持ち船頭の家に生まれ、米商を営む叔父・山本次郎八の養子になりました。

本名は山本長五郎。

「次郎八のところの長五郎」を縮めて「次郎長」です(※1)(※2)。

商人として育てられたはずが、若くして家業を飛び出し、渡世の道へ進みます。

東海道の宿場と湊を舞台に、大政、小政、森の石松といった子分たちを率いて、幕末には「東海道一」と呼ばれる大親分になりました(※2)。

後の講談や浪曲、映画が描いた「海道一の親分」の姿は、ここから来ています。

物語として脚色された部分も多いのですが、実在の次郎長の本領は、むしろこの先にあります。

運命の夜:咸臨丸事件

1868年(明治元年)9月、戊辰戦争のさなかの清水港で、次郎長の人生を分ける事件が起きます。

港に停泊していた旧幕府の軍艦・咸臨丸が新政府軍に攻撃され、乗組員が殺害されました。

遺体は港に浮かんだまま、誰も手を出せません。

「賊軍」の遺体を弔えば、新政府に咎められるかもしれないからです(※3)。

このとき動いたのが、次郎長でした。

子分たちに遺体を収容させ、向島の浜に葬ります。

新政府側に問いただされたときの次郎長の答えが、いまも語り継がれています。

「死ねば官軍も賊軍もない。仏に変わりはなかろう」(※2)(※3)。

この一件を知った幕臣・山岡鉄舟(江戸無血開城の立役者のひとりです)は次郎長を高く評価し、墓碑に「壮士墓」の字を揮毫しました。

この墓はいまも清水にあります。

次郎長と鉄舟の生涯にわたる交流も、ここから始まりました(※3)(※4)。

第二の人生:親分、港を育てる

明治に入ると、次郎長は驚くほどあっさりと渡世から足を洗い、地域の実業家・社会事業家に転身します。

手がけた事業を並べてみると、その幅広さに驚く方も多いかもしれません(※5)。

ひとつめは、清水港の波止場づくりです。

静岡のお茶を清水港から直接輸出できるようにするため、地元の茶商、清水の廻船問屋、横浜の輸出商のあいだを取り持ち、新しい波止場の整備に動きました。

のちに清水港が「お茶の輸出港」として発展していく、その土台づくりに関わったことになります(※5)。

ふたつめは、富士の裾野の開墾です。

1874年(明治7年)からは、富士山南麓の荒れ地の開墾に取り組みます。

県の後押しを受け、模範囚の力も借りながら17年。

拓いた土地は約76ヘクタールにおよびました(※3)(※5)。

さらに、英語塾と西洋医学。

これからの時代に必要なものを見抜く目もあったようです。

清水に英語塾を開き、西洋医学の医師を招きます。

この塾で学んだ三保村の青年が、のちにハワイへ渡って英語を活かしたという記録も残っています(※5)。

ケンカの腕で名を揚げた男が、晩年は港湾、農業、教育、医療に力を注ぐ。

1893年(明治26年)に74歳(数え)で亡くなったとき、次郎長はすでに「親分」ではなく、「清水の恩人」と呼ばれる存在になっていました(※1)。

なぜ、いまも清水の英雄なのか

講談や映画のヒーローであれば、時代とともに忘れられていくものです。

次郎長がいまも忘れられていないのは、清水の人にとって「港を作った側の人」だからだと思います。

毎年8月の清水みなと祭りでは、次郎長にちなんだ道中姿の行列や踊りが登場します。

生家のある一角は、いまも「次郎長通り」という商店街です。

港の発展を祝う祭りに次郎長が登場するのには、こうした歴史の背景があります。

歩ける次郎長:市内の史跡めぐり

次郎長の物語は、清水では歩いて確かめられます。

いずれも、港エリアから徒歩、または短時間の移動で行ける範囲です。

次郎長生家(次郎長通り)

次郎長が生まれ育った町家がそのまま残っていて、国登録有形文化財になっています。

当時の帳場や道具、写真が見られて、入場は無料です。

開館は平日10:00〜16:00、土日祝は17:00まで。火曜休です(※6)(※7)。

港からの行き方は、20のことガイドの7番にもまとめています。

清水港船宿記念館「末廣」

晩年の次郎長が港で営んだ船宿を復元した記念館です。

英語塾の資料や愛用品の展示があります。

次郎長にちなんだ銘菓を、抹茶とセットで楽しめる喫茶コーナーもあります(※8)。

壮士墓

咸臨丸事件の犠牲者を、次郎長が葬った墓です。

山岡鉄舟の筆による「壮士墓」の三文字が刻まれています(※4)。

梅蔭禅寺

次郎長本人と、大政・小政らが眠る菩提寺です(※4)。

生家と末廣は徒歩圏に並んでいるので、あわせて回りやすい場所です。

河岸の市のランチや清水銀座の散歩と組み合わせると、半日の「港町歴史コース」になります。


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よくある質問

Q. 講談や映画の次郎長の話は、どこまで本当ですか?

森の石松の逸話をはじめ、物語として盛られた部分がかなりあります。

講談の次郎長は、「作品」として楽しむのがよいと思います。

一方で、咸臨丸事件の遺体埋葬、富士裾野の開墾、英語塾は、記録に残る史実です。

事実の部分だけでも、十分に波乱に富んだ生涯です。

Q. 史跡はどこから回るのがいいですか?

港側から歩くなら、生家と末廣のある次郎長通り界隈が起点になります。

どちらも滞在20〜30分ほどで、あわせて1時間あれば回れます。

火曜は生家が休みなので、寄港日が火曜の場合は、末廣と壮士墓を中心に回るのがおすすめです。

Q. 英語の展示はありますか?

生家・末廣とも、展示は日本語が中心です。

翻訳アプリがあれば十分楽しめます。

この記事の英語版を読んでから行くと、背景が分かって歩きやすくなると思います。


参考資料・出典

本文中の(※番号)は以下の資料に対応しています。

  1. 清水次郎長(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  2. 清水次郎長(Wikipedia)
  3. 静岡異才列伝1『清水次郎長』(次郎長翁を知る会)
  4. 次郎長史跡案内(次郎長翁を知る会)
  5. 地元の発展に貢献した「清水の次郎長」(清水地区郷土史)
  6. 国登録有形文化財 次郎長生家(静岡市公式)
  7. 次郎長生家(静岡市観光ナビ)
  8. 清水港船宿記念館「末廣」(静岡市観光ナビ)

*最終更新:2026年8月。次郎長の生涯には講談・浪曲由来の脚色が多く混ざっており、本文では記録性の高い事実を中心に、代表的な説を紹介しています。史跡の開館時間・休館日は変わることがあるため、訪問前に公式情報をご確認ください。*